イケハヤさんのyoutubeを見ていて、たまたま佐々木俊尚さんの話になり、表示された佐々木さんのXのプロフィールに書いてあったこの本の名前にピンときて購入。
自分が考え、指導してきていることと非常に近いものがありました。
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目次
料理レシピに依存することは、私たちを幸せにしてくれない
帯には
「毎日の料理が面白いほどラクになる画期的発想法」
「面倒なレシピはもういらない!家メシを最適化せよ」
佐々木さんが、四半世紀も家で料理担当をされてきたというのを、実は初めて知りました。
「名もなき料理の人がやっているのは、言語化されていないメソッドのようなものである。レシピという手順ではなく、頭の中に刷り込まれているメソッドに従って料理を作っている。」
頭の中に刷り込まれているメソッドに従って料理を作る、「そんなのどうやったらできるの?」と思う方もいるかもしれません。
でもたとえば、お味噌汁。十種類作れといわれても作れるのではないでしょうか?
それと同じこと、と、いつも私はお話ししています。
名もなきレシピの三原則
- 料理レシピはいらない。目の前の食材を、定番のメソッドに当てはめるだけでいい
- 過剰なおいしさを求めない。毎日食べ続けられるひと皿を
- 料理の完璧な仕上がりではなく、料理するプロセスを楽しむ
佐々木さんは、この三つを挙げています。
過剰なおいしさ、過剰なレパートリー、なぜか「もっともっと」とそれを追求しなければという思い込みが、家庭で料理をする人の首を占めているように、私は感じてきました。
「レパートリーが少ないんです」とお悩みを相談してくる方に、「ではどのくらいあれば良いと思われますか?」と質問すると、大概の人が「考えたことがなかった」とおっしゃいます。
もちろん、「あんな料理作ってみたいなあ〜」と検索して作ってみたら美味しかった!というのは、当然あっていいんです。
でも、「レパートリーが無限になければいけない」かつ「レシピを見ながら作った料理こそがちゃんとした料理」という思い込みで、自分を苦しめている人が多いように感じるのです。
「もっといろいろな料理が作れるようにならなきゃいけない」
それ、誰が要求しているのですか?
どこまでいったら満足できますか?
バブル以前の日本の食卓はもっと地味だった
佐々木さんは1961年生まれ。
私の一つ上、同世代です。
彼と同様、バブル以前の日本の食卓を、私も経験しています。
我が家は、父が千葉から電車で1時間かけて都内まで「おいしいもの」を食べに連れていってくれるくらいにはグルメな家庭だったし、母も食いしん坊の父の要望にこたえて料理教室に通って、チキン・ガランティーヌなど「ハイカラ」な料理を作ってくれてはいました。
それでも刺身やステーキは特別なご馳走だったし、日々の料理は、今のようにバラエティ豊かな食卓とはほど遠いものでした。
父がいない時の定番料理は、ホットプレートにキャベツのざく切りをたっぷりのせて、その上に豚肉の薄切りをのせたら蓋をして蒸し煮。
味付けなし。食べるのは辛子醤油で、でした。
それでも不満はなかったし、日々美味しく食べていたように思います。
実際、私はこの料理が好きでした。
私が大学生の頃(1980年代はじめ)は、レシピ本も、写真はなく文章だけのものが主体。大さじ何杯などという表記もないのが普通でした。
バブル以前は、そんなものだったのです。
飽きる家庭料理は崩壊する
「飽きる家庭料理は崩壊する」と佐々木さんはいいます。
「強いうま味には、その料理に飽きやすいという問題がある」と。
飽きてしまったら、新しい料理を考えなければならなくなる、、、。
料理上手でも知られた女優の池波志乃さんが、もう30年は前の本の中で、「うちのご飯は、ハトポッポごはんでいい」と書いていたのを、なぜか今でも記憶しています。これも同じ意味でしょう。
市販のうま味調味料や**の素で「調えた」料理は、皆同じような味わいになってしまう、と私は感じてきました。鶏がらスープの素、でも。
会社員時代、外食や中食が続くと、飽きたものでした。
でも家から持って行くお弁当って、残りもの中心、あとは朝さっと作れるものを詰める程度だったけれど、飽きることはありませんでした。
あれは「揺らぎ」のせいなのかな、と思うのです。
店の料理とは違って、同じ食材で同じように作っても、家庭料理は同じ味になることはたぶんない。
そして、いつも同じ味を目指すべきものでもないと、私は思います。
実は私にとっても「幻の麻婆豆腐」とか「2度と作れない木須肉」とか、、、ありますw。
家族全員が唸るほど美味しくできたのに、同じように作っているつもりでも、2度と再現できないのです。
でも、家庭料理には、揺らぎがあっていいんだと、だから飽きないんだと思うのです。
料理を要素分解して、もう一度組み立てる
そして実践編。
- 炒めるは3つの積み木で
- 根菜を煮る「イーブイ」は無限に進化
- 肉も魚介も野菜も、ただ一つの「和える」で
- あらゆるものを飲み込んでいく大海原 焼き飯と焼きそば
佐々木さんは、この4つにわけて提案しています。
私は、東大式ロジカルクッキングで
料理は、食材×調理法×調味法の掛け算が基本と捉え、それを習慣化することで、アレンジ自在になるよう指導させていただいています(ピボット料理法)。
料理を要素分解して、もう一度組み立てているつもりです。
受講生からは、実際こんな感想もいただいています。
「実家を訪れた時に、冷蔵庫をあけてその場でささっと料理をしたら、父が驚いていました。
でも一番驚いたのは私でした。本当に、あるものでささっと作ることができるようになるんですね」
そして、受講生の食への好奇心の程度によって、和洋中エスニックと「ベース」となる調理法と調味方の組み合わせを提示し、あとは、ピボット料理法でご自身で、どんどんアレンジしていっていただきます。
実は、レヴィ=ストロースの「料理の三角形」、そのオマージュとして書かれた玉村豊男の「料理の四面体」も、料理というものを分解し、構造で捉えなおしています。
料理を単体で捉えるのではなく、構造として、類似点があるものをまとめて把握することで、「名もなき料理」「あるものでささっと」が可能になります。
生活を軸にして生きるということ
「日々の料理や掃除、洗濯、片付け、名もなき家事の数々を健全にこなして行くことこそが、この不安定で未来に期待できない世界における確固とした「軸」になり得るのではないか。」
「名もなき料理を作り、そのプロセスの気持ちよさに自ら感動し、そして食べて楽しむ。単なる食欲の処理ではなく、食材を選んで調理し、食べるまでの一連の流れのプロセスが、人間らしい感動に満ち溢れている。これこそがAI時代の身体運動、人間らしさそのもではないだろうか。」
「名もなき料理は、レジリエンスを学ぶための「心のレッスン」になるのだ」
以前、ある女性が話してくれたこと。
「ビジネスコーチから、あなたは毎日料理しているけど、その時間は無駄。それを削って効率化して!とアドバイスを受けたけど、私にはこの時間を削るとうまくいかないの。無理だった」と。
彼女もまた、しなやかに「名もなき料理」を作る人なのでした。
私も、家にいる時は毎食あるもので適当に作っています。
それが私の生活のリズムだし、それが、「どうにかなる」「私は大丈夫」という感覚につながっているように感じるのです。
食育の目指すものは何か?
食育基本法が施行されたのは、2005年。
私は2002年に食育ワークショップをスタートし、2004年に「感じる食育 楽しい食育」という本を上梓しています。
この本は、ありがたいことに、食の分野の方々に広く読まれ、全国各地から呼ばれてワークショップを開催してきました。
20年以上も前の本だというのに、いまだにこの本を読んだからと、食育の講演を頼まれることもあります。
当時書いたことは、20年以上経った今でも私の活動の軸ではあるのですが。
ある小学校で食育授業をさせていただいた時、校長先生からこんな感想をいただいたことがあります。
「サカイさんがされていることは、食だけに限らず、本当の意味での生きる力を育むものですね」と。
正解のない世界の中で、また、それぞれが置かれている状況が違う中で、その時その時での最適解を選べること=「ちょうどよい感じ」を掴むこと、それこそが一番大切なことではないかと思うのです。
まさに「レジリエンス」。
忙しい中でも、日々の「名もない料理」を作ること、「名もない料理」を作ることができるようにサポートすることを、これからも続けていきます。







